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風に吹かれて(8)      白井啓治  (2008.11)

 『春の 生命 ( きぼう ) の土に埋めて秋の滅ぶ』

 突然に虫の声が死んだ。柿の葉が斑に茜を点す。異常気象を自慢するかのように深まった秋の空に竜巻が起こり、夜半に雷が吼える。でも確実に訪れた秋が滅び、雑木は間もなく容赦のない枝となる。

 地球の平均気温が一〇度上がろうが、地軸が変わらぬ限り、地表の見かけの様相は変わるが、日本から四季のなくなることはない。だから四季の移ろいは日本人にとって生命を自覚する、所謂尺度といえる。

 十月の最終日曜日のこと。この九月から百姓のまねごとをするために、瓦会で自給農園をやっている松山さんの所へ手伝いというか邪魔しに出かけているのであるが、そこの収穫祭がおこなわれた。

 松山自給農園と契約をされている東京、千葉、埼玉などの方と劇団ことば座関係の人達と、定番のさつま芋掘りで土に遊ばれ大はしゃぎした。掘り起こしたさつま芋を、今はもう行われなくなった根菜類の土に埋めての越冬保存を行った。

 腰を痛めた私は、ただ眺めるだけであったが、土に遊ばれて嬉々とした表情をみて、人間とは土に戯れることの如何に必要なことなのかをしみじみと思わされた。特に大地を命の母と大切にしているオカリナ奏者・オカリナ製作者である野口さんの土に遊ぶ笑顔は実に屈託なく、喜びの唄そのものであった。

 世界的金融恐慌の嵐が吹き荒れていて、通貨価値が上がるの下がるのと大騒ぎをしている。金融の不安定による恐慌事態は大変な問題なのであるが、金融恐慌の本当の恐ろしさは、明日食べるものがなくなることなのであるが、通貨価値の上がり下がりだとか金融の流れの停滞することだけにしか、目向いていない。給料が安くなることだとか、ボーナスが出ないなどといった表層にだけに目が奪われてしまっている。

 通貨というのは物と一対で初めて機能するものなのだから、本当に困るのは物がなくなることなのだ。地球規模で見たとき、人間が食さなければならない物(食糧)が、圧倒的に不足しているのである。通貨なんか持っていても、買えるべき物が足りてないのだから、生きてはいけないのである。

 金融恐慌を単なる金融の流れが止まる、鈍くなるという一方向の面だけの問題として考えてはいけないのだ。金融には常に物が一対となってくっついていなければならないものなのだけれど、多くの人はそれが見えていない。しっかりとした経営者は、通貨には物が一対となって繋がっていなければ、破綻することを知っている。それが理解できない経営者の会社はすぐに潰れる。国や市町村の経営も同じである。

市報が配られ、そこに市の財政健全度は基準内、と書かれてあった。 国が決めた財政状況を指標で示したら健全度は基準内ということなのであるが、お金の貸借対照だけが健全であってもそこに物が一対となって存在しなければ暮らしは立たない。財(金)だけの貸借対照が健全でも意味がないのだ。よく考えると実に、恐ろしいことである。

 中国産の輸入冷凍食品は…などとしたり顔で話をしている場合ではない。ましてや管理、規制の強化で安全の確保なんてことを叫んでいるのはもっと恐ろしいことだ。

 日当たりの向きによってキュウリは曲がるもの。曲がってないキュウリは不自然、とすぐに考えられる生きる力を身につけないと、物のないお金の貸借勘定だけでは本当に滅びてしまう。

 『大地に人の命の十世に継がれてふるさと。

  十世の移ろいに洗われて継がるるは物語。

  物語の継いで希望の標すは伝承。

  時代の移ろいに流されて伝承の一つ忘れて

  暮らしの一つ沈む…』

 朗読舞の台本にこんな詩を書いて演じているのであるが、「金の勘定に流されて物の造るを忘れて、暮らしのみんな沈む」となってはあまりにも希望がない。

 金の勘定をするときには必ず物の勘定も一緒に、と土に遊ばれながら喜びの笑顔を見せていた野口さんを思い出し、そう思ってしまった。