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風に吹かれて(7)      白井啓治  (2008.10)

 『風の吹いて 秋の戸を叩く』

何時もより風の鳴らす音が硬いな、と思ったら夜半にはすっかり秋風になっていた。猫の耳ちゃんは、我が胡坐をかいた膝の中から出ようとしない。昨日に比べていく分風が冷たく感じられる程度なのに、耳ちゃんにはもうすっかり秋支度のようである。この夏、ズーッと楽しんできたオクラの薄絹のような黄色の花ともそろそろお別れである。

 先月号に文化力と題して石岡の祭りのことなどについて少し書いたら、早速、こんな資料がありますよ、とお送りいただいた。とてもありがたいことである。その方は、小生が、おそらくは読んでいるだろうけど、といった言葉を添えて資料を送っていただいたのであったが、お言葉のとおりそれらの資料は読んだことのあるものがほとんどであった。

 石岡の地名の由来に関する資料に、鈴木健氏の書かれたものがあった。鈴木氏とは、風の会の集まりに以前お招きし、お話を伺った事があったが、その後ご無沙汰してしまっている。文中に失礼ではあるが、ご無沙汰の非礼をお詫びいたしたい。

私にとって、氏は石岡にきて最初に出会った物語を内包した歴史や地名の考察文の著者である。

 私は、本会員の打田さんのように歴史好きではないのであるが、嘘八百の作りごとを書く場合にも必ずそれらの時代考証として頭に入れておかなければならないので、一通り目を通す。

石岡に越してきて、歴史の里と自称する街なのだから、少しぐらいは何かを読んでおこうと、石岡市で出している「常府石岡の歴史」という本を求めて読んでみたのであったが、申しわけないが実につまらない、物語の内包されていない自分勝手の年号暗記のような本であった。その後、石岡市史などにも目を通したが同様であった。歴史の里と自慢するにしては、多くの市民の人達が石岡のことを知らないというのは、この本の編纂によく象徴されている。

そんなときに出会ったのが鈴木氏の著書であった。しかし、石岡では彼のことをあまり歓迎していないようである。ある会合で鈴木氏の本のことを言ったらそっぽを向かれてしまったのである。

石岡に関する資料として今回お送りいただいたコピーの中に、鈴木氏の地名石岡に関する考察があり、大変懐かしく嬉しい気持ちにさせられた。自分が、この本には物語があるな、と思っていた本を違う人から同じように紹介されるのは実に愉快な気持ちにさせられる。

 さて、お祭りも終わり、秋風が本格的に吹き始める季節になってきたのであるが、自慢するお祭りに対して、自慢する人達のどれ位が今年をしっかりと総括しているのであろうか。

 この私も傍観者として、また希望のある形でお祭りの継承されていくことを願う者として、今年を総括しておかねばならないと、お祭りの中日の昼間に出かけてみたのであったが、ある人にこんなことを言われた。

「夜見に行かないと賑やかさが分からないでしょう」

と。しかし、お祭りが市民の生活の中に希望の姿としてしっかりと根をおろしているのであれば、それを感じさせる雰囲気は、酒の勢いを借りた群集心理の働かない昼間に出かけた方が正直に見て取れる。

 中日の昼間歩いてみたが、残念ながら去年よりも一段とお祭りの雰囲気が寂れていた。夜になり何万人かの人を集めたからと言って、お祭りが明日の希望に満ちて継承されていることにはならない。それにしても石岡の祭りの寂れようは無残としか言いようがなかった。

それで改めて「常府石岡の歴史」の第三節、常陸総社祭礼の成立、を捲り、祭りの歴史をたどってみた。ところがそこに「総鎮守」なる見慣れない言葉を発見した。

 本来総社の成り立ちから考えれば、総社が鎮守(地域の神)に成り得るものではない。しかし、時代の流れの中にあって、その形や内容は変化していくものであるし、また、総社といえど生き残りをかけての所謂、企業買収と同じようなことがなされたり、対等合併ということが行われてきたに違いない。そのことは一つの歴史であるので、総社がその地域の鎮守になったとしてもかまわないことである。

 しかし、歴史に詳しくはないので「総鎮守」というものがあるのかどうかは分からないが、初めて目にした言葉であった。それで、疑問に思い、辞書を引いてみたのだが、安物の辞書の所為なのか、総鎮守という言葉は探せなかった。

 総社がそのように自称しているというのであれば、それはそれでかまわないのであるが、早速図書館にでも行って調べてみなければならない。総鎮守という意味はわかるが、もしかしたら「総鎮守的な」という意味で用いられたのかもしれないが、その言葉の存在は知らなかった。勉強不足と言われるかもしれないが、総鎮守とは初めて目にした言葉であった。

 改めてこの「石岡の歴史」という本を読んで感じたことは、実に物語のない(希望の見えない)本であるということであった。こんなことを言っては失礼かもしれないが、自分たちの都合の良いことを正当化するために書かれた感じの強く臭う本である、と言っても良いだろう。こんな風に感じてしまうのは、私一人なのだろうか。だとすれば、小生よほどへそ曲がりなのだろう。

 だが、市の教育委員会編纂の本であることを考えれば、自分たちの都合の良い価値基準、価値判断に立った正当性を書くのは、賛成はしないがさもあろうと納得できる。そこが、市販の出版物とは違う所である。だから面白くないともいえる。

 余談であるが、ずいぶん昔のこと。文部省関連の原稿を書いていて、そんなつまらないことは書けないと言ったら、勉強はつまらなくてもいいと言われたことがあった。次から、その仕事は断った。