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風に吹かれて(1)      白井啓治  (2008.3)

 先日のこと。突然主治医から「肩が凝りますか」と訊かれ、何のことかと一瞬面食らってしまった。一月号に、やり残したものを風呂敷に包んで担いで歩くのはやめた、と書いた雑文を読まれての話であった。

 実際に今年に入ってからは、このふるさとの編集と「ことば座」の女優、小林幸枝さんへの朗読舞の戯曲の執筆以外の事は全て風呂敷から出してしまった。これで少しは肩の荷が軽くなり、肩凝りもなくなるかと思ったら、逆に一個の荷の重さが確りと自覚できて、昨年よりも風呂敷の荷が重く感じられるようになった。

 このふるさと風は、現在、私を含め六名の会員が、毎月ふるさとの「風の言葉」として、「ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える」をテーマに、何らかの文章を書いている。今月で二十二号になるが、これまで「今月はパスします」という人は誰もいなかった。改めて考えると、これは凄いことである。そう自覚したとたん荷の重さが倍になってしまったのである。

 ことば座、朗読舞女優の小林さんに対する戯曲も同じである。彼女の表現力のアップに伴い、彼女に提供する物語の中に配する恋の詩にもこ れまで以上の広がりのある感性が求められてきた。これはもう本当に重い荷物である。しかし、これは嬉しい事ではある。

 自分の選択した荷が重いと感じられるのは、実は、その荷が自分にとって大切なものと思えるようになってきたことを意味する。まあほどほどに、などと考えている間は風呂敷に包み込んだとしても、それが荷物だと主張してくることはない。自分の暮らしにとって何の意味も持たないもので、風呂敷の結びの隙間から零れ落ちてしまうものである。その意味で、この「ふるさと風」と「ことば座」が自分の担ぐ荷物と思えてきたのは嬉しいことである。

 昨年、十一月号から、獣医師の菅原さんが新しい仲間として参加していただいているが、本紙の幅が一つ広がり、とても愉快な気持ちにいる。動物学を通しての話は、ふるさとのあるべき姿を考える上でとても参考になるものである。EPCの話しがふるさとのあるべ姿と何の関係があるのだと言われる方は、過激な言い方であるが、この会報は読んでいただかなくても良いと個人的には思っている。

 今月号に書かれている「生き物の本性」も大変面白い。菅原さんの文に触発されてではあるが、私たちは拒否と受容の二つの選択肢の中で生きている。

 拒否するか受容するかの根源的な判断基準は、快と不快である。そして、言葉というのはそれを伝える手段として生まれてきたとも言える。

そして、面白いことに快を表現する言葉よりも不快を表現する言葉のほうが圧倒的(?)に多いのである。豊富といったほうが適切かもしれない。特に日本語ではそう思えるのだが、言語学を学んだわけではないので判らない。

 しかし、このふるさとで耳にする言葉の拒否が何と多いことかと思う。このことをよくよく考えてみると、快と不快の性格の差によるもののように思われる。つまり、快と不快の心理を能動と受動に置き換えてみると納得がいくように思う。

 快と思う心理は、能動的な心理がないと多くを得ることが出来ない。快を受動的に求めていてもなかなか得ることが出来ないものである。何に対しても先ずは拒否から出発してしまうのは、受動的な心理が働くのではないのだろうか。

 快の感情は、先ず受容してみないことには分からない事が多いといえる。棚ボタ式の快なんてそんなに多くあるわけはないのだから。

 拒否と受容の判定基準は、快と不快なのであるが、快は能動的な中に多く存在するのだから、パラドックスではあるが、先ずは受容を考えないと快は得られないといえる。

 このふるさとに足りないものは何だろうかと考えたとき、もっと能動的に快を求めることではないのだろうか、と思ってみたのだが果たしてどうなのだろうか。

 小林さんには、常世の国の風景をモチーフに恋の物語を書いているのであるが、恋を考えたとき、恋心は受動的にはなかなか生まれないものである。

 このふるさとに恋をしたいのであれば、もっと能動的に快を求めていかなければいけないのではないだろうか。