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風に吹かれて(09-9)      白井啓治  (2009.9)

  

『はてさて今年も秋はやって来た』

 

 自分があまり律儀な性格ではないせいもあってか、「律儀(律義)」という言葉が好きである。朴訥ですが律儀が取り柄です、というのが特に好きである。

 律儀の最高峰はと言えば、移ろう時の刻みであろう。何があったって、時は刻みを変動することはない。勿論、休むこともない。律儀な一秒の刻みの間隔は、頑なな律儀に守られて永遠に消滅することを拒んでいる。

 地球が無くなろうが、太陽系の宇宙が無くなろうが、この時という概念は律儀に、ひたすらに律儀に一秒の時を刻み続ける。

 消滅することのない永遠というものを考えた時、私はとてつもない恐怖を思ってしまう。自分自身は、それこそチャランポランに常に、今この場においても変化を思い、考えているものだから、変わらぬ永遠というものに、圧倒的な恐怖を感じてしまう。

 変わらぬと言えば、机の前にある本棚の、特等席というのも可笑しいが、座っていて一番目につきやすい位置に、どういうものか新潮社文庫の三好達治詩集が辞書や単行本に挟まれ押しつぶされまいと必死に己を主張してそこに住んで居る。住んで居る、という表現も変であるが、住んで居るのである。

それこそ嫌な表現であるが、自立も叶わぬほどのちっぽけな土地にしがみ付いていた、否、しがみ付かされていた水飲み百姓のように、動かず必死にそこに住んでいるのである。

 私は、一仕事が終わるたび気分転換の為に机の上や周辺本棚の模様替えをするのであるが、どうしたものかこの文庫本だけは動かずその位置に居続けているのである。

 詩を読むのは嫌いではないが、三好達治が特別好きというわけではない。しかし、気付くといつも目の前に居るのである。一冊だけが大きさが違うのだから理屈からいえば目立つのであるが、実際には埋もれた感じに居る。その位置というのは、一番目につきやすく手を伸ばしやすい位置で、ほとんどの本が辞書類なのである。

 どちらかと言えば、ややストイックな感じに本棚などを整理しないと気に入らない性分なのであるが、この三好達治の文庫本だけはほかの文庫本の所に行かず、目の前に居るのである。だから、時々読むというよりは、この本のやつまだこんなところに居る、といった感情でパラパラめくってみるのである。

 今もこの「風に吹かれて」の雑文を書き始めた途端、目の前の三好達治が気になりだして、読みたい訳ではないのだが、手にとってめくってしまった。そして、無作為に開いたページにこんな詩があった。折角だから、何かの縁でもあるし紹介しておこう。

 

 「かよわい花」

 

 かよわい花です

 もろげな花です

 はかない花の命です

 朝さく花の朝がほは

 昼にはしぼんでしまひます

 昼さく花の昼がほは

 夕方しぼんでしまひます

夕方にさく夕がほは

朝にはしぼんでしまひます

みんな短い命です

けれども時間を守ります

そうしてさつさと帰ります

どこかへ帰ってしまひます

 

 たまたま捲ったページの詩だから、私の感想や思いを書くつもりはないし、書けるわけもない。だが、私の好きになりそうな詩ではある。おそらくは何度も読んでいるはずなのであるが、新鮮に響いてくる。

 

 さて、律儀はさておいて、当会報も三年間、参加者は毎月誰ひとり脱落することなく原稿を書き続けてくれている。凄いことだなと思う。十月には、ことば座と合同で三周年記念展をギター文化館で行うことになっている。

 三年という年月そのものは大したことではないが、継続性の創造できない地にあって活動の力を着実にアップさせながらの三年間は自画自賛であっても誇るべきであろうと思う。

 この会の力を考えてみるに、言うだけ言って、やる事は誰かがやってくれ、という人が一人もいないという事であろう。一人一人が自分でなければ出来ない事、自分がやらなければならない事を当然のこととしてやってくれることだろうと思う。

 口だけ参加という人は、実行力がないばかりではなく自分自身の創造性が欠如している人だという事が出来る。彼等の話を聞いていると、その殆どが何処かで言っていた、または話題になっている事を言葉を換えて言っているだけである。

まあ、だから逼塞ということなのではあるが、幸いこの会にはそうした人が居ないのが、最も自慢すべきところであろう。特に、最初からの打田さん、兼平さん、小林さんには自分でなければならない事を自覚した活動を展開していただけているのが素晴らしいことだと思う。

 忙しくて、と言い訳をする人は、暇でも何もしないものである。実際、暇そうに見えても暇な人などいないのだから、忙しいというのは言い訳にはならないのである。手厳しく言うと、言い訳というのは、姑息な奴の考える浅知恵だといえる。

自分を振り返ってみても、言い訳を考えようとしている時は、己が怠惰で卑怯になっている時である。