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風に吹かれて(9-1)      白井啓治  (2009.1)

 『月明かりが漆黒の闇を割って新しき年の来る』  

 「トンネルを抜けたら真っ暗がりの闇夜だった」昔、元気に若かったころ、徹夜で車を走らせ渓流釣りに出かけたものであったが、山中のトンネルを抜けたら、本当の闇であったという経験を何度もした。トンネル内は如何に真っ暗であっても、ヘッドライトの明かりが届かないという事はない。ところが、峠をショートカットするトンネルは、抜けた先が谷底になっていて、明りを受けてくれる木々がなかったりする。ダッシュボードの明りだけで、フロントガラスの先は本当の闇である。もし、ガードレールがなかったら、谷底にまっさかさまである。

 私達は、光というと明るいものと思ってしまうのであるが、光が明るいというのは、そこに光を遮ろうとする物体が存在した時にのみ明るいという概念が存在するのである。光の通る空間にもし、塵も埃も全くなかったとすると、そこに光りが照っている、走っていることすら認識することが出来ないのである。

 聖書にあるように、「光りを」と叫んでも、そこに光を受け反射する物がない限り、光が闇を照らしたとしても、明るくはならないし、光が照っているという事はわからないのである。

 昨年に引き続き、浮世は百年に一度の大不況と言われている。しかし、よくよく冷静に考えてみると、今言われている不況という意味がよく分からなくなってくる。

今大騒ぎしている不況とは、お金の価値が下がり、物が動かなくなる(売買されなくなる)ことを指して言っているようである。しかし、これはお金そのものに価値があると錯覚を起こしていることから生じている不況の概念で、お金には価値はないと考えれば今の不況はなくなってしまうのである。

そうは言ってもわが国には自給率がはなはだしく低下しているのだから実質的飢餓不況は慢性的に存在している。金銭的な不況なんかに右往左往している場合ではないのだ。

以前に、私は山野草を見て、食べられるか否かの知識には自慢できるものはないが、この山野草はこうして食べれば旨く食べられる、の知恵は些か持っている、と書いた事がある。この知恵は金銭的にはあまり価値の無いものである。しかし、生き延びるための価値としては大いにあると思っている。

生き延びる為に価値を算出してくれるものを「文化」という風に定義することが出来る。この場合の価値というのは、お金で尺度される程度のものではない。生きる、暮らすというのは単なる道具であるお金で尺度できるものではない。

太陽という光によってもたらされる恵みを持った地球という星に生きる私たちなのだから、光を反射して、辺りを明るく照らし出す本当に価値ある物を持つ暮らしを創りたいものである。