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風に吹かれて(5)      白井啓治  (2008.7)

 『山 躑躅 ( つつじ )  目立たぬように目立ってござる』

 

 まだ山桜の咲いている頃である。絵と一行文教室の皆さんと野外スケッチに出かけた時に見つけた風景を言葉に落としてみたものである。薮の中に一本だけ、目立たぬように目だってござる、と赤い山躑躅を心象したときにふと思った。

 目立たぬように、とは姑息な人間の思考の中だけにしかないのではないだろうか、と。

実際、目立つことには多少のリスクはあるだろうが、それは生半可な目立ちたがり屋をするからであろう。堂々と、立派に目立ってやればちっぽけなリスクなど取るに足らないといえる。現に、というか故事にも言われている。出る杭は打たれるが高く出た杭は打たれない、と。

 薮の中に見つけた一本の山躑躅も、必死に目立とうとしていたに違いない。目立たぬようになぞしていたら、生存競争に負けてしまう。精一杯に目だって、その真っ赤な花にミツバチだとか蝶々などがとまって子孫繁栄に力を貸してもらわねばならないのだから。  

 人に目立つようなことはやってはいけない。

そんな事も言われる。これはしかし、泥棒の格言ではないだろうか。それならば納得がいくが、そうでない人は矢張り目立つことを考えなければいけないし、それが人間としての自然な本能である。

 人は誰でも、自分が注目されたい、注目して欲しいと望み、願っている。だからこそ自分を高める努力が出来るのである。これはひとえに目立ちたい、という本能的心理願望と同時に目立たなければお前の未来はないと言う脅迫観念に似た感情によるものであろうと思うのだが、果してどうなのであろうか。

しかし、人間にとって、生物にとって目立つ事は重大なことであり、目立つための努力が人間社会をこれほどまでにも進化させてきたと言える。

 謙遜を美徳のように言われる。私はとんでもない、と思っている。

 「あなたは素晴らしい人だ。凄いです」

 仮にそういわれたとしよう。多くの人は、この言葉に対して、「いや、とんでもありません。私なんてまだまだです」と応える。そう言うべきであるというサービスマニュアルの暗記のように。

お世辞であれ何であれ、褒めてくれたら先ず「ありがとうございます。褒めていただきとてもうれしいです」と言うべきだと思う。

いやいや、私なんて、とんでもありません、とは褒めてくれた人に対して何たる失礼なのだろうかと思う。

 謙った、姑息な謙遜は謙虚とは言わない。人はもっと素直に目立ったことを喜ぶべきである。ありがとうございます、と大喜びすれば、仮に皮肉を意味して褒めた人には「お前さんは愚かな奴だ」と切り返したと同じダメージを与えることが出来る。

 皮肉屋を切り返してやることなぞ、どうでもいいことであるが、大声で「ありがとうございます」と言うことで、心の屈託を吹き飛ばし、思考が前向きになってくるものである。思考が前向きな人は自信が全身に満ちあふれ、良く目立ち、美しい。

 私達は、もっと素直に(シンプルに)、そして正当に「ありがとう」を声することが必要であろうと思う。

 もっと素直(シンプル)で思い出したが、石岡市では「オアシス運動」なるものを展開しており、その作文・標語を募集している、と広報紙に出ていた。オアシスなるもの誰が提唱しだしたのかは知らないが、語呂合わせ好きな日本人のよく考えそうなことである。それ自体は悪くはないのであるが、語呂合わせに懸命になりすぎる所為なのかは分からないが、大事なことの核心をぼやけさせてしまっている。

 考えついた人は、オアシスというものに特別な思いがあったのだろうか。

 ・おはようございます

 ・ありがとうございます

 ・しつれいします

 ・すみません

 これらの頭文字をとれば確かに「おあしす」になる。しかし、オアシスになったからと言って、考案者には申し訳ないが、何の意味もない。

 「地域の誰もが声を掛け合い、より明るく和やかな潤いある家庭や地域づくりを進めるため」であればその一番大事な事はオアシスではなく、「ありがとう」の一言である。ありがとう、という喜びと感謝を示す一言を大きな声で言うことが出来れば、「おはよう」も「こんにちは」も「こんばんは」の挨拶も何でも出来るようになるものである。オアシスの中で特にいけないのは、「しつれいします」と「すみません」である。運動の趣旨から言ったら、蛇足の言葉である。「しつれいします」「すみません」は会話の中に用いる言葉としては屈託があって、嬉しくない言葉である。卑猥と言ってもよい。

 こんな風に言うと何でもケチをつける奴、と思われるかもしれない。確かにある種の人たちにはケチであろう。だが、物事の核になるものは一つしかないのだから、これが核なのだという自分自身の考えを持つことが必要である。

 一つの作品に表現できるテーマは、長大な作品であれ、小作品であれ一つしかないのだよ、は何時も言っている言葉である。