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風に吹かれて(10-5)      白井啓治  (2010.5)

    

 戻り道のさがすなと春のてふてふ  

 

 当会報も今月号でまる四年をクリア。四十八号となった。会員の皆がそれぞれに確実な点を打って来た一つの成果として大いに自慢しても良いだろうと思う。

 ヒラヒラと自在に上下左右しながら風を泳ぐ春の蝶に己の信条を言わせてみたのであるが、私は間違えたり、失敗したと気付いたら、その行動をその時点で止めにする。そして、その場所からまた新しい道を決め、ジグザグであっても前に進むことを志向する。

よく失敗したから元に戻そうとする人がいるが、元には決して戻れない。元に戻ろうと思考する人達の多くは、自分のこれまでの行動を悔んだりする言葉を吐くものであるが、実に時間の無駄使いだと思う。

失敗を後悔し、悔めば時間が元に戻るのであれば大いに後悔をするが、そんなことは決してない。だからそんな時間の無駄使いはしない。

「敗闕も当に風流なり」

 大好きな言葉である。敗闕も風流なり、そう考えれば人生とは如何にあろうとも愉快である。  

あとの後悔先に立たず、では事の前に良く考え、検討するが大事と諭しているが、これを確り守っていると石橋を叩いても渡らず、になってしまう。石橋、落っこちても良いじゃないか。渡れて愉快、落ちても愉快。人生何かが起こるから愉快なのである。  

 少し前の雑記のノートにこんな事を書いていた。

 『そこに清らかな流れをみたら、これはもうその流れに身をあずけるしかないだろう。清らかな流れでも、ただ眺めていても何も起ることはない。だったらその流れに身をあずけるしかない。流れに身をあずけた時、そこに良質な女性がいたら迷わず恋をして、確かな腰を抱くしかないだろう。良質な女性と一緒ならば、何時流れにのみ込まれて、命の水の流れに死暮れても、後悔するものはない。こんな私を危険な奴だとか危ない奴と言う者もいる。しかし、そこに清らかな流れと良質な女性がいたら、そうするしかないだろう』

 つい先日に記したものであるが、そのとき自分の情態がどうな風だったのか、記憶の蘇ってこない。これは、いよいよアルツハイマーの症状に見舞われて来たのかなと思わず苦笑してしまった。  

 四月末の風の会定例会は、女性陣全員がお休みで、老いた野郎ども三人で馬鹿話をしていたのであったが、私は検査のたびに基礎代謝を上げるために運動をしなさいと言われて帰る、と話したところ菅原兄から、文章を書いたりすることは脳を良く使うためエネルギー消費も高くなるので、大丈夫ですよと言われた。それで気を良くした訳ではないけれど、毎日せっせと一行文を呟いている。その効果があったのか、先日の検査での成績は若干ではあるが改善されていた。