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風に吹かれて(10-2)      白井啓治  (2010.2)

    

 『わかれ道 どっち行く

 

 先月号では「わかれ道、足はみぎむき心はひだり」の一行の文を誌した。今月も同じような文である。どちらの文も、最近に創った文ではない。しかし、この言葉は頻繁に頭に現れる。

 現実の日常では、毎日、いや時々に「わかれ道どっち行く」に出ッくわし、その都度「わかれ道足はみぎむき心はひだり」を実感させられている。

わかれ道に来た時に、何の意識もしないで、右だ、左だ、と選択している人はいるのだろうか。

 私自身のことを振り返ってみると、決まった道を行かなくてはいけない時であっても、どっち行く? と迷ってみたり、右に進みながら気分は左に行きたいんだけれどな、と思っている。何と落ち着きのない奴かと思われるだろうが、この選択の迷いは止める事は出来ない。

 こんなことを思ったことはないだろうか。「今ここで、現在の行動を止めて、時間を元に戻して左に行ったらどうなるのだろうか」と。また、こんなことを思うこともある。「左を進んでいる自分も同時に実現できていたらどうだろう」と。

 こんなことを何時も何時も思い、考えているのは、如何に私は後悔にまみれ、悔んで悔やんで生きているかということだろう。しかし、私は根暗ではない。どちらかと言うとポジティブ過ぎて後悔を呼んでいると思っている。もっと言えば、幼すぎる何でも欲しがり屋、なのだろう。

 愉快、ということから考えると、わかれ道に来た時その両方を同時に体験出来たら、その内容の如何に関わらず愉快愉快である。もし、最大の不幸と最大な悲劇を同時並行に同じ私が体験している実感が持てたら。もし、地獄と極楽を同時並行に同じ私が実感していたら。そう思うともうワクワクするほど愉快な気分になってくる。

 良い歳をして愚にもつかぬことを考える、実に閑で愚かな奴、と思う方は多いのではないだろうか。しかし、愚にもつかぬ事、と言うのは人間にとっては重要なことなのではないだろうか。賢い事ばかり隙間なく考えていたら、間のない間抜け人間になってしまうだろう。

 既成を突き破る、これは作家、表現者にとって不可欠の感覚であり、力・才能である。型破り、掟破りが無いところには希望は生まれない。感情が豊かというのは、傍目には感情のムラとしか映らないだろう。

 感覚的にではあるが、私は支離滅裂ということが大好きである。自分が支離滅裂をされることは嬉しくないが、自分が支離滅裂をすることは大好きである。

そんな私だから、わかれ道があると直ぐに両方を同時に行こうとする。だから何かの選択・決定の場に出会うと、さあどっち行く? 足は右むき心はひだりか? となるのである。愛すべき我が心根、根性である。

 話しは突然に変わるが、年が明けて間もなく鈴木健さんから封書が届き、ライフワークとして長年調査・研究されてきた「日本語になった縄文語」を自費出版されたとの案内であった。早速、会の皆に話し、会として求める事とした。

 以前に、出版前の原稿をCDに入れていただき、拝読させて頂いたのだが、今回本になったものを読み返し、大変に貴重で意義深い研究であると、その長年のご努力に、私流で失礼かと思うが、最大の愉快な快挙と賛辞を捧げたい。

 本来ならば、こうした研究本は、日本人の文化遺産として確りと製本・出版されるべきものだと思うのであるが、文筆家の一人として、昨今の書籍離れには民間企業である出版社に怒りの矛先を向けるわけにもいかず、溜息を出すことしか我が術は無い。

 鈴木さんとの出会いは、石岡に越して来て間もなくの頃に、本屋で「常陸国風土記と古代地名」を手にした時であった。実際の鈴木さんとの出会いはもっと後になるのであるが、常世の国を終の地と決め覚悟して恋物語百を書くことを後押ししてくれた本であった。嫌われた「香島」がヒントとなって生まれたのが、朗読舞女優小林幸枝が気に入っている「悪路狼夢(オロロム)」、悪路王の恋物語である。