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風に吹かれて(10-1)      白井啓治  (2010.1)

    

 『わかれ道 足はみぎむき心はひだり』

 

 年が明けて、一年の計は元日にありとばかりに、今年はこうやろうと心に決め、一夜明けた途端わが足は違う方向を向いて歩きはじめる。しかし、こんなことは年の計に限らず、何事にも日常に頻繁することである。

 「いいじゃないか。そう堅い事を言うな。前に進んでいるのだから、右だって左だって」

 それこそ気づいていれば、また意識できていれば後戻りだって構わないだろうと思う。途中放棄さえしなければ私の好きな「敗闕も当に風流なり」である。

 本会の菅原兄ではないが、人間とは実に際限のない欲深な生きものであろうかと己を省みてそう実感させられる。欲深であるがゆえに「一年の計は…」などといった戒めを持って己を規制しなければならないのだろうと思う。

 普段もそうなのであるが、特に年末年始になると全くの単身生活になり、これ幸いとばかりに思いつくままにあれこれ始めるのであるが、この年末年始は寒波の到来で、「色より可愛い抱き火鉢」の体で、山頭火の句集と水上勉の「一休」を手に炬燵にすっぽりと潜り込んで過ごした。猫の耳ちゃんはわが腹を枕にしてご満悦であった。

 以前、私の机の上の本棚に、三好達治の文庫本の詩集が何年も片付けられることもなく、辞典の影に堂々と存在感を示してあることを書いたが、山頭火と水上勉の「一休」、そして藤沢周平の「一茶」は意識的に辞書類に並んで本棚に場所を得て在る。

 山頭火の句集は、私の一行文詩の師匠のようなものなので、何かにつけて開いて読んでいる。一休と一茶は、作品よりも、その人物その人の生きざまが私に共感するものがあり、私自身もかくありたいという事で時折開いて読んでいる。勿論、水上勉という作家、藤沢周平という作家の作品である以上物語そのものは両作家を表現するものではあり、私の考えとは異なる部分もある。しかしながら、一休も一茶も、私もかく生涯でありたいと憧れる人物である。

 炬燵に潜り込み、首だけを出して一休を読みながら、我77歳になり、森女を得て88まで旺盛な動物的雄であり人間的な男で在り続けられるであろうか、と些か意気地ない気持ちにさせられる。

 朗読舞劇団ことば座の女優小林幸枝さんには百の恋物語を約束しているが、まだ四分の一までしか書き上げていない。年間十話書き上げたとして、完成する時には一休宗純が森女と住み始めた歳になる。その時に、一休宗純と同じように私も風狂にいる事が出来るであろうか、些か自信の持てないところである。いま当会の打田兄がその歳にある筈なので一度確かめておいた方が良いかもしれない。

 打田兄といえば、その精力的な執筆には脱帽である。当会報への原稿、昨年暮れより始まったふるさと知ろう会の朗読原稿、その他文章同行会への原稿、市報への投稿原稿と毎月百枚近い、いや越しているかもしれない原稿を書いておられる。その旺盛な執筆欲は一休宗純に通じる自己愛を裡に内包させているのではないかと思う。

 さて、唐突ではあるが、炬燵に潜り込んで読んでいる一休宗純の詩を紹介しておこう。

 

  恋法師一休自賛

生涯の雲雨、愁にたえず、

乱散の紅糸、脚頭に纏わる。

自ら愧ず狂雲佳月を妬むことを、

十年の白髪、一身の秋。

 

  美人の陰に水仙花の香あり

楚台まさに望むべし更にまさに攀ずべし、

半夜玉床愁夢の顔。

花は綻ぶ一茎梅樹の下、

凌波の仙子腰間を遶る。

 

 この詩を読みながら、自分は果たして80歳をすぎて、このような詩を詠めるのであろうかと見えぬ先に不安を覚えた正月であった。