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歴史随筆(18)      打田 昇三  (2010.5.1)

 

石岡青年音楽隊 (5.1)

  常磐線が岩間までは「上野線」と呼ばれていた明治30年代の石岡町は人口が一万二千四百人余で水戸の三割弱であったが、経済的に振るわない県都を凌いでの商都として繁栄していた。

鉄道と共に高浜港からの船便による商品の流通は、県内はもとより東京、千葉、栃木、福島、群馬、神奈川、長野などに及んでいた。

特に醸造業は県下随一の規模を誇り、酒・醤油の業者が軒を連ねていた。

その頃、市内に「歌舞伎座」「石岡座」という二軒の劇場があり、歌舞伎座では「石岡青年音楽隊」を組織し、各地の招きに応じて宣伝活動や行事に一役を買っていたらしく当時の広告に案内が載っている。

「…茨城県下に音楽隊が無く諸種の行事にも物足りないので音楽手を養成して行事の役に立ちたい…」という主旨(意訳)の二百字ほどの広告であるが「…廉直と勉強とを以て御招聘に應じ可申候間御用向の節は當座へ…」と歌舞伎座らしく裃を着た文章にも「町起こし」への熱意が感じられるようで、当然のことだが繁栄には創意工夫と努力の裏付けが必要なのであろうと思う。