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歴史随筆(14)      打田 昇三  (2009.10.1)

 

二人の養子   2009.10.1

 永享元年(一四二九)の暮に府中城主・大満幹と嫡子・慶松は鎌倉に呼ばれ、建長寺下の谷で暗殺された。

以後、一六〇年ぐらいは細々と続いても、この時が「大氏の実質的滅亡」である。 

その半年ほど前にみ合っていた佐竹方から申し入れがあり、当主・義人の三男(義倭)を和睦の証として養子に迎え、大憲国と名乗らせていた。

鎌倉行きを前に満幹は「…万一の事あらば、憲国を当主として大の家名を護るべし…」と家臣に命じていたが、出来の悪い家臣団はこれを守らず傍系の人物に大を継がせた。

 石岡に居られなくなった憲国は、佐竹へ戻り一族の戸村氏を継いで、太田城の一角に住み「南殿」と呼ばれる歴代の功臣になった。憲国の父・義人は、鎌倉の執事・上杉憲実の実弟で佐竹義盛の婿養子になった人物である。

この時に佐竹一族で反対運動をしたのが山入義で、その姉か妹が大満幹の奥方であったと思われる。山入、大、小栗などの諸豪族は「上杉禅秀の乱」で鎌倉管領を敵にしており、山入義は早々と殺害されていた。

 大満幹らはこの乱で負けていたから没落は仕方無いのだが、勝者側の佐竹氏(鎌倉執事の家)から養子が来れば「大氏に対する扱い」も違ってきたのではないか…。

 上杉禅秀の遺児・教朝も大満幹の養子として石岡、水戸に住んだことがある。地位を回復して鎌倉管領・足利持氏追討の指揮官となり養父・大満幹の仇を討った。