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歴史ガイドに同行して(9-2)      兼平ちえこ  (2009.2

  当「ふるさと風」の一月第三十二号にご案内しました「石岡の陣屋門」につきまして、ご愛読頂いております方から、「従来県指定史跡であったものが、何故建造物指定となったのでしょうか」とのご質問をいただきました。そこで今回は「常陸国風土記を歩く会の皆さんへのご案内」の道草編として、このご質問に対して、調べましたことをご紹介いたしたいと思います。

 文政十一年(一八二八)に建設された陣屋門は火災にあった江戸小石川の藩邸を再建する際の余材をもって造られたといわれています。今年で百八十一年の命もさまざまな歴史を潜りぬけ、役目こそ閉じられましたが、しっかりと保存されながら「温故知新」と私達に語りかけているかのようです。しかし、穏やかな現在のお姿を拝観出来る迄には郷土を愛する市民の熱烈な物語がありました。

 昭和四十一年七月、市民会館建設のために県指定文化財の陣屋門が移転されるという報に、昭和八年に発足して積極的に歴史研究と、保存活動を展開していた石岡史蹟保存会を中心に移転反対運動が起こった。

 『陣屋門は建物と、その地点が指定されているものでこの門の位置を変更することは史蹟としての生命を奪い文化財に対する反逆行為であるものです』と移転反対を表明した。

 二ヶ月後、昭和四十一年九月には約八〇〇〇人の市民が陣屋門保存会の会員となった。市議会議員七名と五つの市民団体が連名で市民会館の建設延期を要求する趣意書を市側に提出したが、翌年昭和四十二年建設工事は着手された。

 陣屋門の移転問題は凍結されたまま工事が進められ、狭い三叉路の一角にある門は、車にぶつけられ屋根に草が生え傾き始めていた。

 昭和四十三年四月、市民会館がオープン。次々と行われる市民会館の文化事業の前に陣屋門は暗い老朽化した過去の遺物となってしまった。元より陣屋門は、大正時代に実科女学校(現石岡二高)の正門として活用されていたが、同女学校が府中の現在地に移転後、石岡小学校(創設明治六年)に受け継がれ同小学校の校門として親しまれて来た。県は昭和三十五年三月に有形文化財史跡に指定した。

 


現在の陣屋門


石岡小学校校庭入口より見た陣屋門

 

 三年間の反対運動に疲れてきた市民も市の移転案のように陣屋跡内の石岡小学校の敷地内に移し、修理復元して保存することこそ次善策と望む声が高まる。

 昭和四十三年九月、陣屋門は県指定有形文化財として史跡から建造物へと指定変更され、翌年昭和四十四年三月、ついに移転の工事が行われることになった。

 私は以上の経緯を知り、残念至極でなりませんでした。新と旧の共存、どちらも生かす事が最善策であったのではないでしょうか。歴史の里「いしおか」だからこそ、新と旧磨き合って。

覆水盆に返らず、ではあるけれど、ふとこんなことを思ってしまった。陣屋門が元の位置に戻ったならば、現在の市民会館の存在も、オープン当時の市の発展を感じさせる明るい光に復活するに違いない、と。

 


市民会館前の陣屋門跡

最後に、石岡史蹟保存会の創始者の一人であった今泉義文氏(昭和五十一年十月永眠)の言葉が、写真にみる石岡の昭和史研究会出版部発行の「写真集いしおか昭和の肖像」に四十数年に及ぶ史蹟保存活動を振り返っての言葉として、載っているのでそれを紹介しておきましょう。

『……史跡保存と開発の問題は、現在文化全体にまたがる大きな問題といえましょう。

……現代のように社会機構が大きくなると開発事業も大きくなり、史跡も簡単にのみこまれてしまうわけです。しかし、よく考えてみると史跡保存は政治以前の、広く文化に対する感覚の問題でしょう。我々の祖先がいままでとにかく伝えてきた文化遺産を考えもなく破壊し去るのは実になさけないことです。開発計画も一寸した配慮で史跡を救うことができるはずですし、また適切な代案が考えられるはずです……。これからの若い人たちには、我々の世代が十分には果たし得なかった面、つまり学術的な究明を強く希望するものです』

 

 ひと雨 暖のおと    ちえこ