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歴史ガイドに同行して(4)      兼平ちえこ  (2008.8)

  四月十二日に行なわれた「霞ヶ浦・常陸風土記を歩く会」の皆さんへのご案内コースを紹介してきましたが、今回はその最終コースJ石岡城(外城)跡(後半)K小目井 L月天宮 M愛宕神社・景清塚です。

 ご案内から少し日が経ったので、先日、蒸し暑い中、もう一度出かけてみました。

 J石岡城(外城)

 石岡城に関しては、郷土史研究家の方々の様々な説がありますが、昭和五十五年(一九八〇)に外城遺跡発掘調査が行なわれ、瓦等、中世の遺物が出土し、城跡であったらしい事が確認されています。今後、第二次、第3次の発掘調査が行なわれ、中世のロマンが解き明かされることを願いながら、今回は、昭和六十年三月付の説明板に添ってご案内しましょう。

 建保二年(一二一四)常陸大掾を継承して、常陸国衙において政務をとっていた大掾資幹は、鎌倉幕府から府中の地頭職を与えられ、この地に居館を構えた事が石岡城の起こりと言われている。

 

 その後、大掾氏の拠点として城郭も整備され「税所文書」には南北朝動乱期の大掾高幹の居城として「府中石岡城」の名前が見える。高幹の子、詮国の代に至り、大掾氏は常陸国衙を拡張して府中城を築き本拠をそこに移した為、石岡城は「外城」と呼ばれたという。近世後期に書かれた地誌類には、大掾氏が府中城に移った後の「外城」の城主として、石岡某、札掛兵部之助、田島大学などの名前が見え、天正一八年(一五九〇)の大掾氏滅亡とともに外城も廃城となっている。現在は、かつての城主であった札掛氏をまつる札掛神社と堀、土塁の一部を残すのみである。(説明板より)

 札掛氏をまつる札掛神社は、札掛大明神と呼ばれ、祭神は札掛民部佑氏俊。札掛氏は代々この外城の地に関わりをもっていて氏俊の代に外城の城主であった。

 天正一八年(一五九〇)大掾浄幹(現在の石岡小学校内、府中城にて)は、佐竹義宣の大軍を迎え、石岡及びその周辺に戦った。この時外城を守っていた氏俊は壮烈な戦死を遂げ、城は焼け落ちた。十二月二十三日〜二十八日の事である。札掛氏の一類である岡田家をはじめ、周辺の人達は大変、その死を嘆き、一社を建てて祭った。これが札掛大明神である。

 隣りに鎮座する岡田稲荷神社については、祭神は、宇賀御魂神。もとは外城の鬼門除として祭られた。そんなわけで館宮稲荷大明神ともいわれた。岡田稲荷神社と改めたのは、天保六年(一八三五)である。その頃から岡田家が祠守(しもり)をしている。

 南北朝時代の内乱での霊を一心に慰め、見守っている札掛大明神さまは、現在ではビニールハウスの並ぶ畑地と宅地。西側、南側は緩斜面になっている舌状台地の丘陵地を前にしています。

 西北方面の小高くなっている鐘付堂であったという辺り。フンダテ(古館)といわれている城内。南側は、カンドリと呼ばれ、大掾家の軍神、守護神としての香取神宮に由来するという。「香取はカンドリ(楫取)の約で上古においては船人を統率する人の地をいう。下総国の香取神社は神代下紀の東国のカトリ(楫取)の地」という。(石岡の地名「ひたちのみやこ千三百年の物語」より)

 広大な城跡を右手にして、宅地の点在する曲がりくねった道を南側に下りていく。前方に恋瀬川の土手が広がる。残念ながら、流れは目にすることが出来ない。可憐なピンクの花を付けるたばこ畑。突如、田園地帯を遮るコンクリートの橋桁(バイパス道路建設用)。丘の上の外城の堅固な守りを示すかのように孤を描いて続く道。筑波山がより近く広がる。青田が揺れる。恋瀬橋を架ける六号国道は相変わらず多忙な車の往来。

 K小目井

 約八〇〇メートル辺りの南西崖下に古井戸がある。これを小目井と呼んで、府中六井の一つとして豊な水量と良質の水を湧出していたそうですが、現在では、ほとんど涸れてしまっている。「府中雑記」によると「税所、健児所(こにしょ…治安、防衛に関する機能を持つ官職)等六人、祭事を行う時、この六井にて垢離(こり)を為す(なす)」と記されている。

 六人衆の満々とした冷水を浴びる様子を想い描きながら約二十メートル先を右へ上る。右側は古城の西側の緩斜面になっている。

 緩やかな曲がり坂を三百メートル位進むと「茨城郡衙・石岡城跡へ二〇〇メートルの案内ポールのある(右を指している)T字路。右側に目を移す。東、南、西側と自然の地形を利用した、それぞれの外堀の跡。内堀は、丁度ビニールハウスの辺りに明瞭に目にすることが出来た事を確認しながら、石岡市史(上)の文中「風光の美、誠に王者の居館に応しい」に納得し、先人の勇姿に拍手を送り、懸命に生きた証に心熱くしながら、T字路を左へ、月天宮に向かいます。

 L月天宮

 まもなく右側に桜木等、こんもりとした木々の一角に月天宮。本殿の後に奥の宮。重厚さと荘厳さも感じられる。祭神は天照大神の弟、月読尊。国府時代、国分寺のあるところ日天、月天、星の宮の三社あり。日天宮(祭神は天照大神、太陽即ち日の神)は、国府七丁目に現存。星の宮(祭神、天香々背男命、北極星の位置に建てられた)は、昭和二十年頃までは府中五丁目に現存していたそうですが、惜しくも建造物は解体され、総社宮の境内に移設されているそうです。太陽崇拝はどこの民族も共通であり、我達の祖先も例外ではなく、日、月、星を神として信仰しました。石岡では府中三光の宮と称するようになった。

 M愛宕神社、景清塚

 月天宮の脇の細い道を進むと高浜街道に出る。高浜方面に向かって五十メートル位先を左に入る。間もなく真新しい貝地町公民館と以前会報二十五号で紹介しました、きんちゃく石こと茨城廃寺、五重塔の露磐のレプリカが、威光を放っていました。貝地の皆さんの歴史に対する意識の高さが伺われました。

 公民館の隣地の塚が景清塚といわれ、墳上に愛宕神社と平景清公之霊地の碑があります。景清は桓武天皇の血を引く高望王の子孫で、この地は景清山、景清屋敷と呼ばれている。

 

 寿永年間(一一八三)平維盛に従って屋島合戦に源氏の美尾谷十郎国俊と錣引の力競べをして、その剛勇をうたわれた。また、扇の的を射た源氏の那須与一と共に屋島合戦の双璧を飾ったが、平家滅亡の後、源頼朝に従った。後に常陸国守護八田知家に預けられたが、食を断ち、建久七年三月七日に命を終えた。(石岡の歴史と文化より)体が大きく力が強かったので悪七兵衛景清とも称されていた。「悪」とは、性質や行動が激しい、勇猛である、剛毅であるを意味するもので、愛宕神社をもって勇敢な景清の霊を慰めている、と金刀比羅神社の宮司さんが話されていました。

 如何でしたでしょうか。四ヶ月に亘り紹介してまいりました高浜、北根本、田島、貝地地区の石岡歴史めぐりコース。皆様にも健康増進のウオーキングと合わせ、石岡の歴史を肌で感じて頂きますことをお勧めいたします。

 次回も五月に行なわれました旧石岡市内の寺社を中心とした歴史めぐりを紹介したいと思います。       参考資料 石岡市史上巻

 

揺れる谷津田 ふるさとに恋して

見つめられて ユリの花      ちえこ