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歴史ガイドに同行して(16)      兼平ちえこ  (2009.11)

 

 昨年の五月(当会報第24号)より、「霞ヶ浦・常陸国風土記を歩く」会の皆さんへのガイドに同行してのご案内を紹介してまいりましたが、今回が最後となります。

 南側に宮平遺跡(現在は常陸風土記の丘)を抱き、いにしえから人々の生活を守ってきました @竜神山、そして竜神山に鎮座するA村上佐志能神社、B染谷佐志能神社をご紹介しましょう。

 

@竜神山

 石岡駅から、西方に約五キロ、標高一七九、九メートルの低い山ですが筑波山に連なる山で各所に巨岩が露出している。この巨岩は筑波山の東方に分布する古生層に属し、主に粘板岩から成り立っている。山には龍(男龍・女龍)が住み、雷神様が籠っており、雷様の穴に指を入れると、雷様が鳴らないうちは指が抜けないと言う伝えがある(染谷佐志能神社脇の風神の穴)。この龍は里の人によって龍神として厚く信仰されていました。

 山麓に湧出する 清水 は「日照りにも涸れることがない」と言われ、住民に喜ばれていた。旧石岡側からはなだらかなとても眺めのよい山であったという。

 現在の竜神山は移ろう時の流れに翻弄され、無残にも真中が抉りとられながらも筑波山の男体、女体山に遅れじと必死な形相にその景観を保たせています。

 

  

A村上佐志能神社

 旧石岡側から見て右側に鎮座しています。通称柿岡街道の大砂交差点を少し過ぎ左に進んで行きます。

 鎮座地、石岡市村上男龍下四九四。祭神・日本武尊、闇龗神(くらおかみのかみ)、男龍。

 「三代実録」に「仁和元年(八八五)九月七日戊子、授かるに常陸国従五位下、村上神に従五位上」とあることから、平安時代の頃の創建ではないかといわれている。

 社殿はたびたび火災に遭いその都度再建、修復され、現在の社殿は一八八三年(明治十六年)に建て替えられた。社殿前、左手の「御神水」の石碑脇に竜門と君門の二穴がある。そこから 清水 が湧き出ていて、昔は村人の飲料水や灌漑用水に利用されたといわれている。龍神(男龍)といわれた雨の神、豊富な湧き水を司る神として尊敬された。

 本殿、弊殿(現在はありません)、拝殿、鳥居一基、社務所を有し境内の総面5,2ha。祭祀は、毎年四月十九日に行われます。  

B染谷佐志能神社

 竜神山に向かって左側。常陸風土記の丘から車で四〜五分のところに鎮座しています。

 鎮座地、石岡市染谷峠一八五六.

 祭神、豊城入彦尊、高龗神(たかおかみのかみ)、雌龍。

 承和四年(八三七)三月、仁明天皇の時、常陸国新治郡佐志能神社に預るとされる。

 東国の鎮定に大功をたてた豊城入彦命(崇神天皇の子)の玄孫、荒田別命の子孫、佐白公が新治国造に任ぜられた時、祖神を鎮斎すべく龍神山の山中に神社を建てたといわれている(佐志能は佐白の転訛)。祭神である高龗神は村上佐志能神社の闇龗神と同胞であり、両部で龍神と称し雨の神である。

 文久二年(一八六二)九月に社殿が炎上したがその後再興された。

 本社左手にある屏風岩の穴は俗に「風神の穴」といい、夏になるとここより黒雲がまき起こり雷神が出現し、雷雨を降らせて農民にとって干天に慈雨となるという伝説を生んでいる。毎年四月十九日の例祭に、十二座神楽という里神楽(古典民俗)が奉納される。約四百年の歴史を持つと伝えられ、市指定有形文化財となっている。

 

 

 この十二座神楽は次のような順序で演出される。

一猿田彦の舞、二長刀のつかい、三矢大臣、四剣の舞。以上は祓いの舞いと四方固め、一人で舞う。五豆まき(施肥のことか)(一人)、六狐の田うない(二人)、七種まき(一人)、八巫女舞(二人)、九鬼の餅まき(二人)、十みきの舞(二人)、十一えびすの舞(四人)、十二天の岩戸(八人以上)。楽器は、大太鼓、小太鼓、鼓、笛、鈴などを用い、演者はその場面に応じて、それぞれに扮装をこらし、仮面をかぶり無言で行う。

 雨の神また田楽の舞といい、当時の主産業であった農業と密接な関係をもつものといえる。

 是非来年こそ里神楽、古典民俗に触れてみることをおすすめいたします。尚、四月十九日にお見過ごしの場合は、九月の「石岡のおまつり」、二日目の大祭に、常陸国総社宮の神楽殿にて奉納されます。

 後継者不足で、十二の舞、すべて演じられないということですが、なかでも巫女舞(小学生二人)、鬼の餅まきは人気を集めています。

  以上で歴史ガイドのご紹介は終了と致します。長い間、紙面にお付き合い頂きありがとうございました。皆様が「歴史の里いしおか」への御関心を深めて頂く一助になれば幸甚に存じます。

参考資料 石岡の歴史と文化

(石岡市歴史ボランティアの会編)

 

 ・ぐるっと 山の神さま

 ・里に灯る 烏瓜しずかに  (ちえこ)