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歴史ガイドに同行して(1)      兼平ちえこ  (2008.5)

先月四月十二日(土)のこと。

「霞ヶ浦、常陸風土記を歩く」の会、主に鹿行地区の皆さんの案内に同行させて頂きました。歴史を尋ねながらの健康増進を目的とする皆さんでした。

熱心なリーダーの方が予め下見なされて作られた「ワンポイント案内」は的確で、大変参考になりました。そのリーダーの方の下見の時の感想を伺って、石岡市民として残念な思いにさせられました。

「歴史のある街なのに、お住まいになっている土地の歴史を皆さんに尋ねても、わからないとの答えが多かったことに驚きました」

というお話しでした。

今回の見学は高浜神社を出発として、古墳のある北根本、田島、茨城、貝地方面で、約五時間のウオーキングコースです。

@高浜神社

高浜神社は、高浜県道沿い低地にあり、愛郷橋方面への信号のあるT字路の近くに鎮座しています。常陸国の国府が石岡におかれた奈良時代、都から着任された長官(国司と呼ばれた)には任務の一つに、国内の神社の管理と祭事の運営があり、国内の神社を参拝する(神拝)という行事がありました。

 常陸国では、鹿島神宮が第一大社(一の宮)であったので、高浜の港から、船で鹿島まで行くことになっていました。しかし、悪天候で出航不能の時には、高浜の渚にススキ、マコモ、ヨシ等の青草で仮殿(青屋)を造り、東南方面の鹿島神宮を遥拝(遥かに離れた所から拝む)しました。今の高浜神社の社殿は後世に(創建時代必ずしも明確でない)遥拝されたあたりに造営されたものであるとされている。

 拝殿が西向きは、鹿島神宮に参拝している状態であるといいます。また祭神も鹿島神宮と同じくして武甕槌命となっている。

 A爪書き阿弥陀堂。

爪書き阿弥陀堂は、高浜神社より旧玉里へ向うこと二、三分のところにある。

室町時代、この地に天台宗の西光院が建立された。その西光院は廃寺となり阿弥陀堂だけが現存している。堂内には本堂の千手観音像と親鸞上人が平石に爪で描いたと謂れのある阿弥陀碑が厨子に納められ安置されている。

親鸞上人が鹿島神宮参拝の折り、港のある高浜の地を通ったある日、腫れ物に苦しんでいる人に法を説き、南無阿弥陀仏≠フ六字名號を授けると痛みが次第に薄くなり、とれてしまった。病人は小麦の焼餅でお礼のもてなしをし、未来の苦患も助け賜りたいと願い、上人を送り、家に帰ると庭先に阿弥陀如来像が置かれていたという由来があります。

  B舟塚山古墳と府中愛宕山古墳へ

阿弥陀堂より高浜神社へ戻るようにして、港町として栄えた面影を残す町並みを感じながら、常磐線方面に向う(十分位)。常磐線を横断。その時、右側一帯は常磐線の為にえぐられ、地続きだった台地の頃には、多数の古墳が点在していたそうです。間もなく上り坂。登り切ったところに、右側には民家を前にして府中愛宕山古墳。左側には舟塚山古墳、見学者の為の駐車場。ここより畑の作物や花々を見ながら三、四分で舟塚山古墳に到着。

東国(特に京都からみて関東一帯)第二位、県内では最大の前方後円墳(全長一八六メートル、国指定史跡)、茨城国造、筑紫刀禰の墳墓と推測されている(発掘調査はされていない)。築造年代は、墳丘の形態と陪冢(ばいちょう…近接の小さい古墳)からの出土品で五世紀中頃と推定、出土した短甲、直刀、盾等は風土記の丘の資料館に展示されている。


舟塚山古墳から筑波山を望む)

府中愛宕山古墳は、全長九六メートル、明治三十年に発掘調査が入り、無文素焼の壷七個発見されたと言われているが詳細は不明(県指定文化財)。築造年代は六世紀前半と考えられている。この古墳は、霞ヶ浦に舟を乗り出す形なので出舟と言われ、それに対して舟塚山古墳は入舟と呼ばれ親しまれている。両古墳上には自由に登ることが出来、筑波山連山、旧石岡地区でたった一つの山である龍神山、南東側には、霞ヶ浦(現在は木々が成長し見えない)を望む景勝地となっています。

ばらき台団地を右側にして車に気をつけながら十五分位、万福寺に到着。お疲れ様でした。今回はここで一休み。来月には、万福寺、茨城廃寺跡、石岡城跡、月天宮、愛宕神社(景清塚)へと進めてまいります。

(参考資料)

  石岡の地名・石岡市教育委員会

石岡の歴史と文化・石岡市歴史ボランティアの会編

 

ふっくら牡丹桜 乙女盛り  ちえこ